おらがんまっち

柏崎地区

館山市柏崎地区 お船唄と國司囃子

地域の紹介

 古来から、沖ノ島と鷹ノ島から南の海岸線までは、館山の良港でした。冬場の西の強風や時化からの避泊、江戸に往来する船の風待や、積み荷の確認等で多くの船が入港し、多くの人々が海運に携わっていました。柏崎地区は今も古くからの商店が多く残り、地区住民全体の絆が強いところです。

自慢の御船 國司丸

勝山調の「引舟の図」  [文政7(1824)年]  館山地区の祭礼には、國司丸というお船を引き出します。左側の艫の支柱に文化十四(一八一七)年の墨書があり、また、文政七(一八二四)年には、館山・沼の絵師、勝山調の「引舟の図」が残されており、図にはカミシモを着た舵取が乗っています。大変古いお船です。

扁額:國司丸 泥幕:波に千鳥 制作年:文政7年 
彫刻師:後藤福太郎橘義道、後藤滝治義光
提灯:ほうずき提灯
自慢の御船 國司丸

國司神社(千葉県館山市沼九三一)

祭神:源 親元(みなもとのちかもと)鄕

國司神社由緒:平安時代中期の嘉保三(一〇九六)年から康和二(一一〇〇)年の間、安房国の国司として京の都から赴任した源親元鄕は、自分の俸禄を使ってお堂(泉光院)を建てて、仏教の德を以て善政を行いました。家臣の病気平癒祈願をした大房の竜善院を七堂にしました。その他、総持院(沼の大寺)、沼の天満神社、鷹ノ島の弁財天、沖ノ島の宇賀明神の創建や、清澄寺を再建されたと言われています。任期を終え都に帰る際、柏崎から船に乗ったところ、住民が別れを惜しみ出立を阻んだので、親元鄕は、着ていた直衣(のうし)の左袖を解いて与えました。永久二(一一一四)年に親元鄕の死去を伝え聞いた住民が、遺品の片袖を居宅跡に小祠を建てて祀ったのが神社の由来とされています。國司神社と祭りの様子
 辺には、二百五十年余り前からの歴史を示す石仏等が多くあります。大銀杏は樹齢約三百五十年です。宮の下の回国供養塔は文化八(一八一一)年です。鳥居と石灯籠は天保三(一八三二)年であり村方三役の名が記されています。鳥居の笠木と貫は関東大震災で破損し、笠木は震災記念碑の台石になりました。

地域の自慢

館山市無形民俗文化財指定
お船唄
 「お船唄」は、「御座船唄」ともいわれ、徳川時代に将軍家や諸国藩候が配下に御船手を抱え、その歌方が新造船の進水式や将軍・藩主の乗船の時に歌ったもので、お上に対する恩恵の念から自然に荘重な歌いぶりになったといわれる「長唄形式のお船唄」。
 一月十六日の例祭日には國司丸船唄と正月くどきが、八月一・二日の祭礼では國司丸船唄と皇帝が歌われます。

國司囃子
 國司丸のお囃子は、篠笛・太鼓等の鳴り物でリズムを主として囃すもの(さんぎり・ばかばやし・岡崎・岡崎くずし・祇園・祇園くずし・鶴の巣篭もり)と、これに民謡の節回しを加え、リズムとメロディーとを調和したもの(ノーエ節・子守唄・数え唄・大漁節)が伝えられています。
 現在國司神社には十一種類の御囃子が伝承されています。

國司神社の例大祭

館山地区祭礼(夏祭り)出発式の國司神社例祭日
 源親元鄕が船出した一月十六日に行われています。
夏祭り
 館山地区の祭礼日八月一・二日に。

8/1・2 「館山のまつり」

城山下の館山神社に集合した館山地区の山車と御船祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社倒壊のため、協議により四社の合祀を決め、昭和七年館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり?です。

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柏崎地区(表面) 柏崎地区(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。